ユニコーンやら電気グルーヴやら筋肉少女帯やらSMAPやらお芝居やら

市観てきました。

外れてやさぐれたその足で市を観てきました。

初市。←なにか売ってるのか?

細かいところではイロイロあります。

ありますが、好きな映画でした。

全体にずーーっと流れる虚無感というか流れのまま感というかそういうのがとても好きでした。

そして、市はどんなときでも「異形」な感じがとてもとてもカトリさんにハマってて、何故かキューっとなりました。

以前観た薮原検校という芝居にこういう台詞がありました。

「晴眼者は盲人があらゆる意味でよくなって行くことを望まないんですね。盲が哀れで、愚かで、汚らしいものであってほしいらしい」

晴眼者とは目の見える人のことです。なんだかんだで晴眼者>盲人という図式は崩せないんだよ…っていうそういう台詞です。環境が貧しければ貧しいほど、この図式は崩せない。何故ならその図式が晴眼者の最後の砦だから。

農民になろうとする市は農民としては「なにやってんだ、ダメだなあ、もう」って、いっつぁんだったけど、農民のためにやったとはいえ、仕込みでやくざ者を有無を言わさず殺ったとき、農民の態度が一変しました。こいつは自分より強い。そう認識した時点でもう同等というか対等というか、さっきまでのやさしさがなくなったかのようになり、見えないことと市の負い目を利用していく方向に動いてしまう。

結局、座頭市として、渡世人の中で暮らしてきたときも異形であり、剣を捨てて交わろうとした農民の世界でも異形であり、溶け込めなかった。

その溶け込めないっぷりがカトリさんの風貌とか台詞とか動きとかにハマってて、キューっと。

カントクは一緒に映画を作ってて、途中くらいからそういうカトリさんに気付いたのかなあ。

本来の脚本からラストが変わってるんですね。

ワタシは変わったほうのラストが好きなのですが、それは市にとっては辛い最期。

でも、世の理としては、理にかなってる感じがしました。

うあ、ネタバレになるので、ちょっと区切ります。

ネタバレといえば、いいともポイズン。

市を観てからいいともテレショ観たんですけど、これはホントに壮大なネタバレw

大丈夫だったのかしら、起こられなかったのかしらwww

それぞれの立場を描いて行きたかったのか、場面場面がバラバラな感じはいなめないし、途中まで抑揚がない筋になってるから気持ちが緩慢になっちゃう人もいるだろうけど、だんだんと近づいていった関係が仕込み杖によってバッサリと断ち切られる感じでよかったのかなあ。と。

市はずっとすまなさそうに背をまるめ、すいやせんすいやせんと謝って、必死で身を隠そうとしててそれが哀しかったです。

素晴しかったのは「手」

カトリさんの手があの手でよかった!と思えるくらいに、手が素晴しかったです。

誰かに触れる手、何かを探す手、何かを掴もうとする手。

どれもこれも素晴しかったなあ。

殺陣もよかった。

よかったけど、今までの座頭市の殺陣を思うと実戦すぎて地味にとられたかもしれないかしら。

それでも、勝さんとは体格も違うし、カトリさんの市にあった殺陣だったと思います。

どこまでも不器用というか。

一番カッコよかったのは、千との殺陣かなあ。

千はしゃべれない人だけど、市を見ててきっとなんで普通になろうとしてんだ?と思ったと思うのです。一番、市に近い人なんじゃないかと。最初からしゃべれないというよりは、のど笛の刀傷で言葉を発せなくなったのかな?って感じ。

きっと、市をちゃんと「市」自体で見てたのは、千と玄吉さんとミツさんとタネさんだけなんじゃないかなあ。

刀を置けないだろうと思ってる千と、百姓たちのズルい部分を引き受けた市を思う玄吉さんと、市の弱い部分を知ってるタネさんと、できることなら戻ってこいというミツさんと。

天道とは異質同士というか、そんな感じ。

普通になれるかなあという市の願いをわかってるのは玄吉さんとミツさんなのかなあ。

どちらも自分の立場上、百姓達のズルいところをわかってながら、市に託したところがあってせつないですね。

で、やっぱり晴眼者より盲人が勝っちゃダメだっていうそいう雰囲気が流れてたような気がします。

賭場での市の一括でその場にいた百姓は態度変わっちゃったと思うし。

虎治を殺さなかったのは、もう殺しても誰も戻ってこないって思いでかなあ。

死より辛いものがあるって意味もあるかもだけど。

そして、市もまた死より辛いものというか、死して救われることはないって感じのラストだった気が。

タネさんが手を離したのは「あなたは生きて」って意味だったと思うのです。

ただ、市はまた手を離されておいてかれるわけで…、そこは、人を殺めて生きてきた人が死で救われることを許されないっていう、世の理というか、そういうのがあったのかなあ。

いや、勝手に解釈ですけど。

あそこで死んで、やっと市はタネと一緒になりました、で、終わるより、残るというか。

やっぱり、善悪関係なしに人斬りってなんなんだろうかというか。

市の人生、誰かに利用されっぱなしでせつないんですけどね。

唯一、自分自身のことを思ってくれたタネとの生活は一瞬だったし、また普通に戻れるかもしれないと思った生活は自身の象徴である仕込み杖で壊れてしまうし。

利用されてるとわかっても、誰かのために何かしたかったのかなあと思うと、ホントに哀しいんですけれど。

自己犠牲っぷりは、ドクとか英治とかに通じるものがあると思うんですが、それはカトリさんのどっかにある部分なのか、仏顔のせいなのか…。

この市、ドクに通じる部分があるなあと思ったんですよ。

ドクもどこか諦めてるところがあって、それが途中、あきらめないでやってみようって思い立った矢先、家族のことでまた断念せざるをえなくなってしまう。ドクの不幸は自身はなにもやってないのに、どこからか舞い込んでくる。異邦人であることも一因で。

ワタクシの中の、カトリシンゴ=Englishman in N.Y.説にガツっとハマる映画でした。

どこかどこでも異邦人的イメージっつーか。

見落としがいっぱいあると思うので、また見に行きたいです。

やってるうちに…(´;ω;`)←自分で言って辛くなった

デートムービーでもないですしねえ、家族映画でもないから地味な映画って最初からわかってるのに、何故、大バコでやっちゃったんだろう。そして、あの座頭市川カニ蔵ってなに?なによ?!フジテレビ許さん!とか思いつつ、自分は見に行くことしかできないから、見にいきます。

しっかし、最後に市を刺しにきたアイツ、誰?←ダメすぎ